東京だからこそ出会う人や店をつれづれなるままに紹介


by cafegent
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

雨上がりの夜空にスローバラードを。

小学校の六年か中学に上がったばかりの頃、僕はエレック系のフォークソングを夢中になって聞いていた。拓郎、泉谷しげる、中でも古井戸が好きだった。

当時、RCサクセションも「僕の好きな先生」が人気だったが、僕は「さなえちゃん」ばかり聴いていた。「大学ノートの裏表紙に〜♪」って歌詞に無性に胸がトキメキ、大人の恋と云うモノをしてみたいと思っていたマセたガキだった。
ずっと後になって古井戸の仲井戸麗市がRCサクセションに参加してから改めて深く聴くようにり、僕ももう高校三年生になっていた。

五月二日、忌野清志郎が亡くなった。享年58歳である。
テレビのニュースに映った生前の姿を見ていて、忌野清志郎さんは本当に音楽が大好きで、自分の子供が大好きだったのだなぁ、としみじみ感じた。そして、自宅のスタジオだろうか、彼の後ろの壁にはオーティス・レディングの肖像画が飾られていたのだった。

僕はソウル・ミュージックが大好きで1989年6月、趣味が高じて下北沢にソウル・バーを開店した。
当時、オーティスをはじめ、O.V.ライト、オーティス・クレイなどのディープソウルとフィラデルフィア系のアマアマ・スウィートソウルものばかりを集めては店で架けていた。或る時たまたま聴いたRCの「スローバラード」と云う曲がモロにオーティスじゃないか、と驚いた記憶が残っている。高校生の頃にゃ、なんにも判らんかったしなぁ。確か、あの頃、再録したんだったかナ。
それからは、よく酔っぱらうとカラオケで「雨上がりの夜空に」なんかを唄ったっけ。

清志郎は確かに”King of Rock”だ。そして、その根底に宿るオーティス・レディングへのリスペクトを生涯貫き、完全に自分の歌としてモノにしたと思う。だからこそ、聴く者すべての心に深く刻まれて来たんだろうナ。

雨あがりの晴れた土曜日、僕はいつもの様に立石「宇ち多”」へ行くと、常連が週末だと云うのにダークスーツにネクタイ姿でやってきた。てっきり、仕事かと思ったら、青山へ行くと云う。清志郎より3つ年下の彼は、今日はちゃんと正装して見送りたいと語った。

そして、僕も午後2時少し前に乃木坂に着くと、既に物凄い人の列が出来ていた。気温27度の炎天下の中、最後尾の列に加わった。
b0019140_1429598.jpg
乃木坂のグラウンド広場を出るまでに2時間程待ち、そこからがまた長かった。青山陸橋、青山墓地、そして根津美術館方面までグルリと道の両側に人の渦である。早い人は前日の夜から並んだそうだ。

ずっと彼の歌を聴きながら待っていたのだが、これだけ長い時間待つ訳だから、自然と廻りの方々とのコミュニケーションも生まれたのだ。
b0019140_14302513.jpg
聞けば、新潟や九州から清志郎にお別れを言う為にやって来たと云うじゃないか。凄いね、素晴らしいネ。音楽って、垣根を飛び越えて皆をひとつにするチカラがあるのだよネ。

強い日射しが徐々に引け、青山墓地の陸橋の上に夕陽が輝いていた。
b0019140_14305541.jpg
午後7時、ようやく青山斎場に辿り着くとガンガンに清志郎の歌が聞こえてくる。アナウンスの声は「今日は、青山ロックンロール・ショウへようこそお越し下さいました!」と伝えていた。
b0019140_14311242.jpg
会場前には彼が描いたウサギのキャラのデッカいバルーンが僕らを出迎えてくれた。
b0019140_14341690.jpg
遺影の清志郎さんはとても素敵で良い笑顔をしていたナ。
b0019140_14335494.jpg
写真と目が合った途端に泪が出てきちゃったじゃないか。イカンなぁ。
「素晴らしい歌をありがとう」献花を終え、最後の別れを惜しんだが、悲しんじゃいけないのだ。そう、彼の歌はみんなの心の中にこれからもずっと鳴り響くのだ。
b0019140_14552329.jpg
外はすっかり陽が暮れていた。雨上がりの夜空にいつまでも彼の歌が鳴り響いていた。

心の中で叫ぼうぜ、「イェーッ!!愛しあってるかい?」と。
b0019140_14343612.jpg
心からご冥福をお祈りします。
[PR]
by cafegent | 2009-05-12 14:50 | ひとりごと