日々雑文雑多日記/我が誕生日に昔のビヤホールを憶う。
2011年 02月 17日
同級生の中にはもう孫が出来た奴も居るし、娘が成人式を迎えたなんて知らせも届くと云うのに、ボクは相変わらず呑気に暮らしてる。
先日も新聞を開いたら、学生時代良く遊んだ友人が天下の資生堂の社長に就任したと大きな写真入りでニュースになっていた。創業家一族の福原氏が社長になった時以来の若返り人事だそうだ。他に類を見ない程の立身出世だネ。
まぁ、こちらは我が道を行くだけだ。無手勝流に生きて来た訳だしネ。誰に何と言われ様が、恬然としているしかないのだ。
荒東風(あらごち)や我が半世紀吹き飛ばし
あぁ、腹が減った。昼飯は何を喰おうかナ。お気楽、極楽!
◇ ◇ ◇
作家立原正秋の随筆「美食の道」の中に「ギネスと平和」と云う短編が納められている。これを読むと、もうたまらなくギネスビールが呑みたくなるのだナ。
「場所は新橋の〈ミュンヘン〉で、ここはかつてビール会社の倉庫であったのを、すこし改造してビヤホールにした建物である。表からみるとわからないが、なかは赤煉瓦積みの壁で、生ビールをのむのに相応しい雰囲気である。ギネスの生は、壜づめより苦味がすくなく、味がやわらかであった。」と綴っている。
懐かしいあの赤煉瓦の建物が脳裏に蘇ってくる。当時、スタミナビールなどと呼んでいたギネスのカラメル風味が今にも漂って来そうだナ。
「戦後二十三年、日本は、外国の生ビールをのめるまでになった」としみじみと綴ってる。そして、「二十三年間も平和であったことは、明治以降いまがはじめてである。あの日、ギネスの生をのんだ人たちは、そのことを考えただろうか。悪魔は気づかない場所からやってくるのである」と結んでいる。
遠い異国の民主化デモから派生して、各国に飛び火している今、新しいエジプトに軍事政権がまた介入し続けるのじゃないかと云う悪魔の囁きが、何となく重なって来た。
さて、先日銀座の街を歩いていて、古いビルがどんどん消えている光景が目立っていた。何処もパーキングになっている。
美味い生ビールが呑みたくなると、新橋の『ビアライゼ '98』か神保町の『ランチョン』に足が向く。古書街での戦利品を持ってランチョンの階段を上がる時は胸が踊る。一人だと入口レジ近くの窓側が良い。本をめくりながら呑むビールは格別だ。
もう一軒忘れちゃならないのは、銀座『ライオンビアホール』だナ。
かつては、八重洲に在った『灘コロンビア』や建て替え前の銀座交詢社ビルヂングに在った『ピルゼン』が好きだった。
マガタマの形をしたカニクリームコロッケやボルシチをアテに何杯でもビールが呑めたっけ。ビルの両側から入る事が出来て、大きなタンクがひと際目立ってたナ。そうそう、影絵作家の藤城清治氏のガラス絵が今でも印象に残ってる。
此処で腹を満たし、隣りのバー『サン・スーシー』のドアを開けるのが背伸びしていた頃の僕だ。安月給だが、銀座で呑むってのがカッコイイのだ、と粋がってた。
レンガ作りの渋いビルにステンドグラスの窓やドアがノスタルジックな雰囲気を漂わせていた。実際、創業したのが昭和4年だった思うので、僕が通ってた1985年頃で56年も経っていたのだナ。
『サン・スーシー』の名前は文豪・谷崎潤一郎が命名したと伺った事がある。そう云えば、ハイボールで有名なバー『サンボア』も谷崎の命名だったネ。
銀座の名店が時代と共に次々と店仕舞いをしている。『クール』も8年前に閉店し、『トニーズバー』も一昨年その歴史に幕を下ろした。
銀座三原通りに在る老舗のバー『樽』は今も健在だが、6丁目地区の再開発の影響で戦前に建てられたビルは無くなるかもしれないとの噂だ。
六角形の大きなテーブルと長いカウンターが印象的だが、此処のインテリアデザインは巨匠・渡辺力氏と故・剣持勇の両氏の手によるものだ。
あぁ、こうして書いていると銀座の酒が恋しくなってきたナ。
開店したばかりの誰も居ないカウンターに座り、三枝さんにギネスを注いで貰った。