日々へべ日記/牧水の歌を思い出し、酒に酔う。
2011年 11月 29日
酒なしにして なにのたのしみ
僕の大好きな若山牧水の詠んだ酒讃歌だ。
牧水は生涯に七千首の短歌を詠んだが、そのうち酒を詠んだものが200首もある。
白玉の 歯にしみとほる秋の夜の
酒は静かに 飲むべかりけり
この歌の白玉(しらたま)は、もちろん団子の白玉では無い。「白玉」(はくぎょく)は、酒の色を表し牧水が死ぬまで愛した酒そのものなのだネ。
毎夜、こんな風に酒と向き合っていたいものだ。
古い居酒屋の暖簾を潜ると、時々牧水の酒讃歌が書かれた色紙が飾れていることがある。そんな酒場に出会うと、しみじみ幸せな気分に浸れるのだ。
毎年帰省すると立ち寄る札幌の酒場『第三モッキリセンター』の壁にも牧水の色紙が掛けられている。
何と答へむ この酒の味
酒を愛し、北海道から九州、沖縄、果ては朝鮮まで旅をした牧水は、その酒により肝硬変となり43歳の人生に幕を下ろした。幾ら牧水が好きだと云っても、そこまで躯を壊すような酒はもう吞めないナ。
旅先で出会う酒は、格別美味い。僕はどの米とかどんな仕込みとかよりもその出会いの方を大事にしている。どんな酒だろうと一期一会の出会いで酌む酒ほど美味いものはない。
もうスグ新酒の時季でアル。
先月の「朝日俳壇」の中で、福岡県の大久保幸子さんが詠んだ句を紹介したい。
牧水の歌を愛して新酒くむ
選者の大串章さんが、「白玉の...」の歌を思い出すと評していた。
皆それぞれに牧水の酒讃歌の中でも思い浮かぶ歌が違うのだなぁ、と思った次第だ。
今年の秋に収穫した新米も年末から春にかけて搾り始めるのだネ。
新酒が出回る時季、牧水の歌を思い出しながら酌むのが愉しみだナ。
酒を嗜む方には是非とも、若山牧水の随筆『樹木とその葉』の中の「酒の讃(さん)と苦笑」を読んで貰いたい。
☆ ☆ ☆
真実、菓子好きの人が菓子を、乾いた人が水を、口にした時程の美味さを酒は持っていないかもしれない。一度口に含んで喉を通す。その後に口に残る一種の余香余韻が酒のありがたさである。単なる味覚の美味さではない。
無論口で味わう美味さもあるにはあるが、酒は更に心で噛みしめる味わいを持っている。あの「酔う」と言うのは心が次第に酒の味を味わって行く状態を言うのだとう私は思う。
その酒のうまみは単に味覚を覚えるだけでなく、直ちに心の栄養となってゆく。乾いていた心は潤い、弱っていた心は蘇(よみがえ)り、散らばっていた心は次第に一つに纏(まと)まって来る。
私は独りして飲むことを愛する。
かの宴会などという場合は多くただ酒は利用させられているのみで、酒そのものを味わい楽しむということは出来難い。
然(しか)し、心の合った友達などと相会(あいあ)うて杯を挙(あ)ぐる時の心持ちもまた有り難いものである。
☆ ☆ ☆
久しぶりにこれを読むと一人神保町の『兵六』か野毛の『武蔵屋』あたりで杯を傾けたいものだ。
◇ ◇ ◇
さて、夕べは木場の『河本』から吞み始めた。
普段仕事場でも家でもどっぷりと音楽に浸って過ごしているので、最近は音楽の無い酒場で過ごす時間がとても好きなのだナ。車の行き交う外の喧噪や酒場の客の交わす会話も心地良い音楽の様に酒と共に心に躯にとスゥっと沁み込んでいく。
酉の市が過ぎたら、冷や奴が湯豆腐に変わる。
一人、またひとりと馴染みの顔が戸を開けて入って来る。一人酒がいつの間にか二人酒、三人酒になる。これもまた愉しいひとときだ。
小一時間で木場を後にして神田へ。昨日の二軒目は『あい津』だ。
此処は店主の石村さんが独りで切り盛りをしているのだが、月曜だけは奥様がお手伝いをしている。昨日も満席だったが、夫婦仲良くこなしてましたナ。
自家製イカの塩辛は刻み柚子の香りが効いて飛び切りの美味さだった。
午後9時になったので、そろそろ引き上げる事にした。この日も美味しい料理と酒に感謝!ご馳走様でした。
神田から神保町へと移動した。
昨日は武蔵小山『豚星』の方々が休みを利用して吞みに来ていたと聞いたので、急いで来てみたが既に帰った後だった。
此処の三代目店主は熱烈FC東京ファンでアル。有言実行の一年J1で復帰の夢叶い、無事に今年を終える事が出来たネ。
来年も応援頑張ろうネと酒もススんだのだ。
しかし、酔えばいつもの通りでアル。まだまだ牧水への道は遠いナ。
そうそう、先程の牧水の随筆は、「青空文庫」に出ているので、是非。