東京だからこそ出会う人や店をつれづれなるままに紹介


by cafegent
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新版-東京奇譚/立石の迷宮を彷徨う その1

道徳の示唆よりも官能の命令に従おうと心に誓った ジャン・コクトー

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冬の夜空は空気が澄んで星も綺麗に見えるが、春が近づくにつれて月の輪廻がぼやけて霞んでくる様な気がする。

京成立石で酒を吞む様になってもう可成りの歳月が過ぎた。駅の改札を出て、階段を降りるとそのままUターンして立石仲見世へと進む。
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『栄寿司』の暖簾の隙間から若旦那に挨拶をし、もつ焼き『宇ち多゛』の赤い暖簾を潜る。
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座れば、瓶ビールの大瓶を抜いてくれるので、最初の串を考える。次第に心が和み出し、仕事を終えた躯に寶焼酎の梅割りが沁みる。

来始めた頃は、ただ黙って並び口開けを待ち、鏡下の席で寶焼酎の梅割りを煽った。あの頃は、何故かフワ(豚の肺臓)の柔らかい煮込みが好物で、その部位ばかりを食べていた。味の好み、嗜好は長い間に変わっていくのか、今では、フワが少々苦手になってしまった。いっときに食べ過ぎたのが良くなかったのだろうか。
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何年も鏡下で一人呑みながら、古いご常連達が集う奥席を眺めていたっけ。その内、立石で梯子(はしご)酒をする様になりだして、奥席の方々と声を交わす機会が出来た。以来、僕も奥の卓が定席となった訳だ。

土曜日は必ず口開けを待つ。寒い冬も暑い夏も変わらずに毎週土曜の朝は仕事場に出掛ける時刻よりも早く家を出る。京成線が押上駅を過ぎると車両が地上へと出るのだ。地下鉄丸ノ内線が赤坂見附から四ッ谷に入る時や、京成線が押上から曳舟に向かう時の、車両が地上に出る瞬間が大好きである。車内が一気に明るくなり、車窓からは天空に聳える希望の証「東京スカイツリー」の勇姿を望むことが出来る。
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少年の様に心弾ませながら、立石までの数駅が長く感じてしまう。

あの頃は、僕もこの町で小さな恋をしていた。仲見世界隈では知らぬ者が居ない程の人気者の彼女は、宇ち多゛の奥席でもマドンナ的な存在だった。あのコに恋い焦がれていたのは僕だけじゃない筈だ。

だが、そんなワンウェイの恋など束の間の恋である。渋谷や新橋辺りでも何度かデートをしたが、結局はそれ以上に実らなかった。今じゃ彼女も人の嫁となり、僕との友人関係も続いている。あぁ、だらしないね、オレは。

土曜日は朝から梅割りで酔い、踏切の向こうの吞んべ横丁のスナックなどで昼から唄い、また吞んだ。夕暮れまでこの町で酔い、また電車に乗り込む。何度となく深酔いに寝落ちして、電車を乗り過ごした。三崎口まで行ったこともあれば、羽田空港で目が覚めたことも多々あった。

立石の町には、酒の魔人でも棲んでいるのだろうか。宇ち多゛の梅割りも余り吞み過ぎると後から急激にボディブローの様に効いてくる。3軒目か4軒目辺りの酒場ではもうカウンターを枕に寝てしまう。

平日も、仕事が終わると立石へと向かう事が多い。午後7時前後に宇ち多゛に着くと、もう品切れが多くなりシロと大根だけが残っているなんて事もしばしばだ。それでも、此処の梅割りを吞まなずには仕事からの開放が出来ないのだ。

ここ数年は、僕も体調を気にする様になり、寶焼酎の梅割りの杯数をセーブすることにした。最初に必ず瓶ビールの大瓶を貰うことにして、梅割りの杯を減らすのだ。これだけでも、大分違う。
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宇ち多゛を出た後は栄寿司で軽く握りを食べ、『二毛作』に移動することが多い。こちらは、古くから続く自慢のおでんが美味しい。最初の一杯目は、バス・ペールエールのビールを飲む。
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そして日本酒に切り替える。若き店主たちの酒のセレクションも良く、いつもオススメを戴くことにしている。

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何軒か酒場を梯子してから向かうのは、「吞んべ横丁」だ。
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狭い路地裏では、幾つもの酒場の看板が掲げられているが、幾つの店が営業をしているのか定かじゃない。
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土曜日の昼間などは、アーケードの屋根の隙間から太陽の灯りが漏れ、白昼夢の中に迷い込んだ錯覚を覚える。

ここは昭和28年頃、立石デパート商店街として生まれた一角だ。
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当時は洋品店やカバン屋、金魚屋などが軒を連ね、主婦達で賑わい買い物を待つ子どもたちが走り回っていたと聞く。
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しかし、昭和33年の赤線廃止以後、この横丁は飲食店が繁盛し始め、次々と業態が変わっていった。いわゆる青線地帯と呼ばれ、一階が飲み屋で二階がチョンの間と云われる座布団売春宿と化した。昭和50年代後半には、青線も消えていき、今の様な飲み屋街となったのだ。

かつてこの街には、血液製剤を造る日本製薬葛飾工場があったため、原料を確保する「血液銀行」に自分の血を売る輩が多かったそうだ。漫画家のつげ忠男は、其処で働いていたし、作家の五木寛之も困窮をしのぐために売血に走ったと聞く。

「わが人生の歌がたり 昭和の青春」にも記しているが、早大在学中、極貧のために血を売って生活をしていた。

「立石の製薬会社に、しばしば血を売りに行ってピンチをしのいだ。
この売血というやつは、肉体よりも、精神に悪い影響を及ばすものらしい。出かけて、二百CC抜いて、手取り四百円ほどもらってくると、二、三日は働かないで済む。つい習慣性におちいりやすい危険があった。....四百円を握りしめてたんぼ道を帰ると、遠くの景色が傾斜して見えた。もう二度と血を売るのはやめよう、とそのときに考える。だが、またどうにもならなくなると、京成電車に乗るのだった」と。

坂口安吾がハマったヒロポンは、昭和二十六年に「覚醒剤取締法」が制定され禁止されたが、まだまだ闇取引で横行していた時代だ。売血で金を手にした連中は酒とクスリに溺れ、チョンの間へとしけ込んだことだろう。

当時の立石は町工場が多かったため、仕事を終えた職工たちのオアシスだった。今では、地元の連中しか足を踏み入れない様なディープ・スポットになっている。

線路脇の道から入ることも出来るし、『鳥房』の横からも行ける。
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約30メートル程の細い路地が二つ、其処に数十軒もの飲み屋が在る。
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どの店が健在で、何処が廃屋なのかまるで判らない摩訶不思議な一角。正に立石の迷宮(ラビリンス)だ。
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この戦後の文化遺産と云うべき横丁もあと数年で消滅すると聞く。今残るのは19店舗だが、この横丁は一人の地主の所有地である。二代目の現地主は、駅前再開発に合意しているため、三年後あたりには、この横丁から開発が始まるらしい。

              つづく...
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Commented by ピロ at 2012-02-13 09:12 x
自由人さん、こんにちは
立石の路上で突然声かけてすみませんでした。
自由人さんは二件目えびす屋でしたか?
あれから自分はCKBのライブまえにフライ屋、第一亭でした。
野毛もなかなかイイですね。
Commented by cafegent at 2012-02-13 18:25
ビロさま、こんばんは!

先日は、こちらこそお声掛け戴きありがとうございました。

野毛の福田フライ、良いですよネ。
また立石でお逢いしましょう。
by cafegent | 2012-02-10 17:48 | ひとりごと | Trackback | Comments(2)