新版-東京奇譚/立石の迷宮を彷徨う その2
2012年 02月 15日
そのこと以外に、人間を救う便利な近道はない。 坂口安吾
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そっと戸を開けて中を覗くと、小さなカウンターに女性が一人立って居た。見た目の印象だが、たぶん30代の後半ぐらいだろうか。趣味の良いシャツを着て、シェフ特有のエプロンを巻いていた。
「一人だけれど、いいかな?」と声をかけると彼女は小さく頷いた。
音楽も無く、ただトントンと俎板に包丁が当たる音だけが響いた。そうかまだ支度中だったのかな。「此処、何時からですか」と訪ねると彼女は少し笑って「最初のお客さんが入った時かしら」と答えた。成る程、そう云うことか。
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カウンターに幾つかのワインボトルが並んでいたので、赤ワインをグラスでお願いした。ルロワのブルゴーニュか。なかなか良いセレクションだな。
小腹が空いてきたので、何か料理を訪ねたら、毎日その日の気分で仕込みをしているとのことだった。この日の一品は「カスレ」だった。カスレとはフランス南西部の肉やソーセージと豆の料理だね。そんな手の込んだ料理を食べられるとは驚いた。
三杯程ワインをお代わりした辺りで、ピアフからフランソワーズ・アルディに変わった。
彼女は、手を休めることなく何か料理を仕込んでいる。立石の迷宮にこんな素敵な店が在ったのか。
あの時以来、幾度となく此の店を訪れている。だが、一度として他の客を見たことがない。それでも、仕込みをしているのだから客は居るのだろう。
カスレ、スープカレー、ひじきの炊き込みご飯、リエット等々、いろいろと食べたが、何れも本当に美味しい。何より嬉しいのは、漫画の深夜食堂ではないが、出来る料理は何でも作ってくれることか。
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彼女の名は「絹子」と言う。小さな顔に細くて長い手が、なんとも凛として絹の名に相応しい。若い頃は青山の輸入服飾会社でバイヤーをしていたそうだが、なんでも自分の上司と恋に落ちたらしい。だが、当然ながら向こうには家族が居た。好きだけれど近くには居られない。耐えられないと会社を辞めて渡仏したそうだ。
そこで出逢ったのが料理だった。彼女は一からフランスの田舎料理を勉強し腕を磨いたのだ。数年後、日本に戻って来てからは、自分のアパートメントをアトリエにして料理研究家として仕事を始めた。
何故、そんなことまで知っているのかと言えば、ある日書店の雑誌コーナーで料理誌を捲っていたら、彼女の顔を誌面の中で偶然にも見つけたのだ。フランス製の鋳物の鍋を使った料理の本を何冊も出す、その世界では可成り著名な料理家だった。
そんな実績の有る彼女が何故、この町で酒場を開いているのだろう、と思いその雑誌を手に店を訪れたことが有った。
彼女は一瞬、目をアライグマの様にパチクリとさせたが、大きな笑みを浮かべ「あら、バレちゃった?」と笑いながら答えた。
料理研究家として活躍しているので、別に店に出なくても良い筈なのだが、彼女は自分の作る料理で酒を愉しく吞む人々と直接向き合いたくなったのだそうだ。それで、知り合いを通じてこの物件を知り、手に入れたらしい。
此処は随分と古くから在った店の様だ。薄明かりのランプに照らされた壁は、時間が降り積もり飴色に光っている。これまでに何人が此処を借りたのだろう。パリの裏路地のカフェの様に店主は変わっても、店の佇まいは開店当時のままの姿を保ち続けたのだね。だが、不思議とカウンターの中に立つ絹子はこの空間に似合っている。
つづく...