東京だからこそ出会う人や店をつれづれなるままに紹介


by cafegent
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新版-東京奇譚/立石の迷宮を彷徨う その3

女は、自分の運命を決するのに、微笑一つで沢山なのだ。 太宰治

             - 6 -
立石の街は、深夜零時を廻る頃には静けさだけが闇に広がる。常夜灯をともす住宅の合間に自分の靴音だけが響く。なんだか街全体が、眠りについた犬のようだ。

暗がりの路地をつたい、また絹子の店の戸を開ける。
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半年程、此処に通っただろうか。これまでに何種類の料理を食べさせて貰ったことだろう。中には作り方を教えて貰い、自分でも試したものも有る。

彼女がカウンターのバックバーの酒を取る時に後ろに向くのだが、時々アップにする髪から覗く細く長いうなじは、官能的だ。僕は昔から乳房や足首と同じ様にうなじフェチだ。和服姿の女性の、後れ毛が風に舞うほっそりとした白いうなじに胸が疼(うず)く。あぁ、一度で良いから絹子のうなじに口づけをしてみたい。そんな妄想を抱きながら、ブーダンノワールを口にする。何故、この日は血のソーセージなのだろう。でも、ブルゴーニュのフルボディには、この濃厚な味が合う。

鼻血が出そうな深い味にうなじの妄想は毒だ。あぁ、確実に僕は彼女の不思議な魅力に惹かれている。駄目だ、キリリと冷えたルロアのシャブリで目を覚まそう。

僕がシャブリを頼むと彼女は、帆立と生ウニのバター焼きをこしらえてくれた。
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オーヴンの中でジワっと溶けたバターの香りが僕をまた刺激する。
絹子の官能的なうなじと濃厚続きの料理が僕をパンチドランカーへと誘(いざな)うのか。

新年が過ぎ、旧正月を迎えたころに絹子の店を訪れた。この日は、ビールを貰った。外はかなり寒かったが、中に入った途端暖かさに包まれたからだ。

「それにしても、他のお客さん来ないね」そう言うと、彼女は「あなたが来てくれれば、それでいいのよ」と思いも寄らぬ答えが返ってきた。ドクンと胸の奥が鳴るのが判った。その響きが彼女にまで聴こえたのじゃないだろうか、と焦った。

おや、珍しい酒が置いてあるじゃないか。
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名バーテンダー、デニーさんが作りだした梅のリキュール星子をオン・ザ・ロックで戴いた。スパイシーな香りと奥深い味を一口飲み、胸の鼓動を鎮める努力をした。

             - 7 -
彼女は鶏肉と帆立のクリームシチューを作っている。バターと小麦粉の絡まる匂いは、遠い北海道の実家を思い出させてくれる。鋳物の鍋がコトコトと弱火の上で唄っている。もう大寒か、寒い筈だよ。

料理を仕込んでいるからか彼女は、暑いあついとシャツの腕をまくっていた。小麦粉の付いた手でもお構いなしだ。絹子のそんな仕草ひとつにも疼(うず)いてしまう。
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恋を始めると、とても音楽が身にしみて来るものだ。ブルース・コバーンの「夜の幻想」が絹子の酒場を包み込んでいる。何か語ろうかと思いつつ、言葉が出て来ない。グラスの氷が僕をあざ笑うようにカランと音を立てて廻った。

此処に居ると時間の感覚が判らなくなる。随分沈黙が続いたかもしれない。ウィスキーをもう一杯注いで貰った。ゴクリと呑み、大きく息を吐いた。

「キ....キミを食べたい..」、自分でもどうしてそんな言葉が口から出たのか判らない。口に出しておきながら、胸の方からは無法松の叩く様な太鼓の音が鳴り響く。絹子は一瞬僕の方に顔を上げて、大きな瞳をさらに大きく見開いた。どれくらいの間が有っただろうか。

洗い物をする手を止めながら、口の両端を僅かに持ち上げ微笑んだ。
彼女はただ黙って、店の看板の灯りを落とし内側から鍵を掛けた。
そして、業務用の白いエプロンを外し、ルージュに光る唇の紅を丁寧に拭き取るのであった。

絹子はカウンター越しに僕の唇にキスをした。
どれだけ長い時間、くちづけをしていただろうか。グラスの氷はすっかり溶けていた。火を止めても、鋳物の鍋の蓋はコトコトと鳴り続けていた。そして、僕は絹子に手を引かれ二階へと上がった。

男と女は、実に不可思議な生き物だ。何かの些細なきっかけから言葉も要らずに惹かれ合う。

あれから幾日かが経過したが、くしゃくしゃに丸められたエプロンについた、あの赤い紅の色が今も鮮明に僕の脳裏から消えない。

この冬を越えれば、春が来るのか。さて、こんな夜は馴染みのバーで、トム・ウェイツでも架けてもらおうか。

              終わり
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Commented by yama at 2012-02-17 16:33 x
素晴らしい「直木賞」決定です
絹子の店教えてください
ブーダンノワールだけでも食べたいです
Commented by cafegent at 2012-02-20 14:59
yamaさま、コメントありがとうございます。

是非とも立石を彷徨ってみてくださいませ!
by cafegent | 2012-02-16 17:10 | ひとりごと | Trackback | Comments(2)