東京だからこそ出会う人や店をつれづれなるままに紹介


by cafegent
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29年前、若林さんは珈琲と音楽とお洒落を教えてくれた。

『少年探偵団 一度きりの再結成 〜若林純夫に捧ぐ〜』と云うライブが週末の代官山『晴れたら空に豆まいて」で開催された。

少年探偵団は、山本コータローさんが中心となって若林さんやムーンライダースの岡田徹さんたちと活動していたバンドだが、僕はそれ以前の「武蔵野たんぽぽ団」での若林さんの唄が好きだった。バンド活動を辞め、渋谷の喫茶店で珈琲を入れながらウンチクを傾け、いつのまにか奥さんの実家がある山口に移り、釣り三昧の日々を過ごしていると聞いてから随分と時間が経っていた。最近では年賀状だけで、お互いの近況を知る程度になってしまっていたが、そんな若林さんが昨年5月に帰らぬ人となってしまったのだ。東京に出てきて30年近くが経つが、上京して最初に世話になったのも若林さんだった。

3月10日の代官山では、この30年の間に若林さんを通じて出会った沢山の方々と会う事が出来て、まるで同窓会のようだった。
ライブも若林さんの人柄が伝わってくる程、皆が素敵な思い出を語り、僕はこの日何度泣いただろうか。

70年代の初め中学生になった僕は兄貴と一緒にバンドを作り、「武蔵野たんぽぽ団」などの曲をカバーして文化祭などで披露していた。たしか、僕はバンジョーかフラットマンドリンを担当していたと思うが、記憶は曖昧だ。当時、ニッティ・グリッティ・ダートバンドとかを聴いていた頃に、「サンフランシスコ湾ブルース」とか、海外のフォークソングに日本語の歌詞を付けて演奏するたんぽぽ団は、すーっと僕の中に入り込んで、夢中でカバーしていった。その武蔵野たんぽぽ団のメンバーで、ソロでも活動していたのが若林純夫だったのだ。

高校に入り、札幌の街のソウル喫茶やロック喫茶に通うようになった頃、やはり大好きだった「はちみつぱい」のベーシスト和田博巳さんが、バンド活動を辞めて札幌で開いた『和田珈琲店』に通うようになり、そこで色んな音楽を教えてもらった。
修学旅行が、京都・奈良・姫路だったのだが、高田渡が好きだった僕は京都に行ったら、まず「イノダ」でミルク入り珈琲を飲み、「拾得」と云うライブハウスにも行きたかった、そんな風に変にマセた子供だった。

18歳で東京に出るとき、和田さんが「東京に行ったら渋谷の『Zoo』と云う喫茶店に若林純夫と云う奴が居るから、彼を頼るといいよ。君の兄貴も一足先に通ってるみたいだしね。」と若林さんを紹介してくれた。
中学の時に夢中で聴いた武蔵野たんぽぽ団の若林純夫に会えるのだと思うと、もの凄く緊張したのを今でも覚えている。
ボーダー柄のTシャツにバンダナを首に巻いていたと思うが、若林さんは最初とても寡黙な人かと思うくらい、黙って珈琲を落としていた。
これがあの「雪の月光写真師」を唄っていた若林純夫なのか、と緊張していたら、いきなりマシンガンの様にしゃべりだしたのだった。当然、それは「このレコード知ってるかい?」、云々の音楽の事が多かったけど、その頃の若林さんはとにかくお洒落に夢中だった。

「トップサイダー」のデッキシューズ、「Upla」のバッグ、フランス軍が履くゴム引きの靴、英国「Fox」社のコウモリ傘、「Smith」のパンツ、「Hardy」「Bredy」のフィッシングバッグ、レインハット、英国のスクールマフラー、「Boston Red Sox」のサテンジャンパー等々。
頭の先からつま先までありとあらゆる小物を集めており、僕もまわりの皆も若林塾の塾生の如く、夕方学校やバイトが終わってZooに行くと、まず若林さんのファッションチェックが始まった。
襟の後ろを掴まれ、このシャツどこの?ってチェックされるのだ。あの頃は、いかに良いモノを安く手に入れるかをみんなで競い合っていたのだ。ソニープラザでトップサイダーが安売りしていると誰かが見つけると、若林さんは4、5足まとめて買って来るし、スミスのパンツがミウラで1800円で売っていたと聞けば、走って買いに行ってたなぁ。

高田渡さんもこの頃はもう東京に住んでいたが、音楽を辞めた若林さんは、その頃はあまりバンド仲間たちとの交流をわざと遠ざけていたみたいだった気がする。コンサートなんかは良く一緒に行っていたけれど、音楽よりもお洒落談義の方が多かったなぁ。
70年代の終わり頃、青山にスウェンセンズと云うアイスクリーム屋が出来て、ちょくちょくそこでアイスクリームを食べながら、手巻きの時計の話とか、英国のアンティークもんの手編みベストの見せ合いとかをしていたが、今に思えば実に不気味な集団だったかもしれない。

今は、ユナイテッドアローズの役員になっている栗野さんは当時ビームスで仕事をしていて、仕事帰りに何度か若林さんのファッション談義に顔を出していた。僕らはビームスに行っては、ロクに服も買わずに、ひたすら栗野さんのお洒落を盗んで真似ていたものだ。
ボーダーTシャツ好きだった若林さんも、いつの間にかネービージャケットなどを着る様になり、お洒落も一段とエスカレートしてったような気がする。

それから何年かして、若林さんは奥さんの実家がある山口に引っ越してしまい、僕もたまに電話で話をする程度になってしまった。ある時、免許を取ってマニュアル式のユーノス・ロードスターに夢中になっていると聞いて、また若林さんの凝り性が始まったか、と笑った。

僕は今までどれだけ若林さんに影響を受けただろう。山口瞳も伊丹十三も読めと云われて、片っ端から読んだ。それを読んだら、次は高橋義孝を読め、そして内田百間に行けと云われた。こうして、凝り性の性格もどんどんとウィルスの様に僕に蔓延してきたっけ。
でも、そのおかげで今の僕が居る。この東京を楽しく生きているのだ。
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この夜は、シバさん、中川五郎さん、中川イサトさん、いとうたかおさん、鈴木慶一さん、山本コータローさん、徳武弘文さん、岡田徹さん、かしぶち哲郎さんそして和田博巳さん、等々蒼々たる面々が若林純夫の為に集まり、唄を捧げてくれた。最後に皆が若林さんのソロ曲「雪の月光写真師」を唄ってくれたが、幕が降り若林さんの若い頃の写真が次々と映し出されてくると、やがて当時の若林さんが唄っている「雪の月光写真師」に変わった。もう、拭いても拭いても泪が止まらない。奥さんのとしこさんも泣いている。後ろを見れば旧友、富塚君も泣いている。ひとみさんも泣いている。隣の栗野さんも泣いている。こんな素晴らしい人たちと出会わせてくれた若林さん、本当にありがとう。
いつまでも、僕らの心の中で若林さんは笑っていると思う。
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当時、青学の大学生だった富塚君もひとみさんも髪の毛真っ白になったね。まぁ、当然僕もだけど。

この日、僕は若林さんから貰ったスタジアム・ジャンパーを着て行った。案の定、富塚君は若林さんからもらったベストと腕時計をしてきた。ひとみさんも着物姿でお洒落してきた。
皆、相変わらず若林塾の弟子たちなのだ。ずっと空から見ていてくださいね、若林さん。
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by cafegent | 2007-03-12 12:52 | ひとりごと