東京だからこそ出会う人や店をつれづれなるままに紹介


by cafegent
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昭和をギャグで席巻した天才漫画家の訃報に「シェー」だ。

赤塚不二夫さんの訃報に思わず「シェー」と呟いて仕舞った。

東京タワー完成の少し後、昭和三十年代に生まれた僕は物心ついた頃からテレビから流れる歌謡曲と漫画に浸っていた。
天現寺交差点に程近い我が家の傍では都電が走っており、裏の細い路地には榊原組と云う鳶の組が在った。

真夏の今頃になると、扇風機の前に根転がり、僕も兄貴も少年サンデーや少年マガジンに夢中になっていた。二階の窓辺越しでは、仕事を終えた鳶職の連中が真っ裸になって夕涼みをしているのだが、背中の俱利伽羅紋紋に興味津々で漫画そっちのけで眺めていた事も懐かしい。たしか銭湯に行く時、油性のマジックで腕にニャロメを描いて「刺青だゾ!」と、鳶職人たちに自慢した事があったっけ。

あの頃、兎に角ハチャメチャで奇想天外なスラップスティックコメディを個性溢れるキャラクター達によって、大胆不敵にやってのけたのが赤塚不二夫のギャグ漫画だった。漫画ならではの不条理な世界も天才漫画家のもっとも得意とする部分だったかもしれない。ウナギイヌやニャロメの登場にも何の疑問も無く受け入れられたのも、赤塚漫画の世界にどっぷりとハマっていたからだろう。

純粋な少年漫画で育ったマンガ少年の僕は、その内に徐々に赤塚不二夫率いるエロい大人たちの世界にのめり込んで行って仕舞った。
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ニューヨークの漫画パロディ誌「MAD」の影響を強く受けた赤塚氏が自費を投じて出版した雑誌「まんがNo.1」は毎号表紙を横尾忠則が飾り、必ず付録にソノシートが付いていたのだ。(コレは復刻版なのだ。)
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ページをめくると、ノッけから赤塚不二夫のフルヌード・グラビアだったり、エロマンガのオンパレードだったりで、軽い脳しんとうを覚えた記憶が残っている。

タモリを知ったのも、山下洋輔を知ったのも、団しん也の面白さを知ったのも全て赤塚不二夫の世界からだった。深夜の「イレブンPM」で特集を組んだ時は、素っ裸のタモリと赤塚不二夫がトカゲとワニになり切っていたし、タモリの原点を初めて見たのもこの時だったかもしれない。

赤塚さんが病に倒れ闘病生活をしていたのだが、2年前ずっと看病に当たっていた奥様の真知子さんが先立たれて仕舞ったのだ。
あの時も大変悲しかったのだが、今回は赤塚さんがお亡くなりになる3日前に前妻の登茂子さんも病気で天に召されて仕舞ったのであった。
赤塚さんが再婚する際に、背中を押して真知子さんと結婚させたのも登茂子さんで、当時可成り話題になったものだった。

その昔、同い年で親友だった落語家の立川談志に弟子入りした赤塚さんは「立川不死身」と名乗っていた。「何だよ赤塚さん、不死身じゃなかったのかよ」と、夕べは赤塚さんを偲んで、三上寛の「ホイ」を聴きながら酒をしこたま吞んだ。
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赤塚さんはきっと天国でも二人の妻に愛され続け、酒浸りの愉しい日々を過ごすことだろう。

そして、赤塚不二夫のギャグ漫画で育った僕らに、こう云うのだろう。
「これでいいのだ。」と。  

昭和をギャグと風刺で駆け抜けた天才漫画家に 合掌。
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by cafegent | 2008-08-04 13:50 | ひとりごと