日々へべ日記/立石、曳舟、鶯谷とヘベレケ街道まっしぐら!
2011年 01月 28日
今日は月に一度催されるれる目黒不動の縁日だ。
おでんの屋台ではお年寄り達が集って濁り酒を呑んで居た。
今年は空前の豊漁で、定置網の水揚げが去年の数十倍と云う港もあり、価格も半分程で売られているそうだ。
〈寒の恵みを求め、こちらも近所の鮮魚棚を回遊する日が続きそうだ〉に思わずニヤリと顔がほころんだ。
〈日本海側は、これまた記録的な大雪に泣かされている。お年寄りが守る家では、除雪中の災難が絶えない。このブリ景気、冬将軍が空の不始末を海で埋め合わせているのだろう。雪国の労苦を思い、四季と四海に謝し、出世魚にお供すべき今宵の一献を選ぶ。〉と締め括っている。
雪国で生まれた僕は、遠い日の雪かきと母の煮るブリ大根の味を思い出した朝であった。
寒ブリを煮るさじ加減 母の味
◇ ◇ ◇
さて、夕べは酒朋ビリー隊長と立石『宇ち多゛』から呑み始め。いつもより少し時間が早いだけで、待たずに座れたネ。
木曜日は立石仲見世は定休の店が多い。『栄寿司』しかり、『二毛作』しかりなのだナ。
ビリー隊長は、ダンベル片手のリカちゃんに釘付けだ。
そんな訳で、僕らは久しぶりに曳舟に出た。そう、目指す先はお馴染みの『三祐酒場』でアル。
此処は、曳舟じゃ知らぬ者がいないと云う程地域に馴染んだ酒場だ。
仕事帰りに素通り出来ないのだナ。大きなL字のカウンターに座れば、暫くぶりと云う事を忘れさせてくれる。実に温かい酒場なのだ。
元は隣りで『三祐酒店』を営んでおり、その角打ちとして酒を出していたが、戦後酒屋と居酒屋を分けたそうだ。
美人三姉妹手作りの刺身や揚げ物、煮物など懐かしいおふくろの味が沢山揃ってるし、元祖焼酎ハイボールも自慢の味だ。
先ずは、菊正宗の樽酒を燗で戴いた。
ビリーは、地元栃木の地酒「天鷹 心」を冷やで呑んでいる。
おっと、ポテトサラダも忘れちゃいけない。
頭をシャキッとさせようと、元祖焼酎ハイボールを戴いた。
そのウイスキーハイボールをヒントに焼酎でアレンジしたのが、此処のダイヤ焼酎の炭酸割りだ。
当時、此処で働いていた天羽(てんば)商店の方が、三祐酒場の焼酎炭酸割りに合うエキスを開発したのが、今に続く「天羽の梅」なのだネ。昭和27年、こうして『三祐酒場』の元祖焼酎ハイボールが完成したのでアル。
ちなみに天羽飲料は大正5年、徳島出身の天羽弥三兵衛(あもうやさんひょうえ)氏が洋酒問屋として創業。しかし、東京の人は「あもう」と読めず、「てんば」と呼ぶようになり、今に至ったそうだ。
ハイボールエキスを開発したのは、二代目の酒井社長で、当時社名を隠して堀切の『小島屋』、平井の『伊勢元酒場』、向島の『伊勢芳酒場』の三軒で試験販売をしたところ、瞬く間に人気が出たと云う。
立石『宇ち多゛』の梅割りも鐘ケ淵酎ハイ街道の下町ハイボールも、全てが此処から始まったのだネ。
曳舟から電車を乗り継ぎ、鶯谷駅へ。
午後8時、丁度口開けのお客さんが一巡したのか、年季の入った太い楓(かえで)のカウンターに座る事が出来た。
『鍵屋』の創業は安政3年の酒問屋から始まった。この佇まいは大正時代に建てられたもの。創業当時の建物は、都立小金井公園内に在る「江戸東京たてもの園」にそのまま移築保存されている。清水さん夫妻も年に一度必ず訪れているそうだ。
根岸の『鍵屋』は、今に残る正統派の東京の居酒屋だと思う。
いい酒場といい店主に感謝して、居心地の良い時を過ごさせて頂いた。
と、静かに帰れば善いモノを僕らはまた悪の道へとススムのだ。