新版-東京奇譚/立石の迷宮を彷徨う その1
2012年 02月 10日
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冬の夜空は空気が澄んで星も綺麗に見えるが、春が近づくにつれて月の輪廻がぼやけて霞んでくる様な気がする。
京成立石で酒を吞む様になってもう可成りの歳月が過ぎた。駅の改札を出て、階段を降りるとそのままUターンして立石仲見世へと進む。
来始めた頃は、ただ黙って並び口開けを待ち、鏡下の席で寶焼酎の梅割りを煽った。あの頃は、何故かフワ(豚の肺臓)の柔らかい煮込みが好物で、その部位ばかりを食べていた。味の好み、嗜好は長い間に変わっていくのか、今では、フワが少々苦手になってしまった。いっときに食べ過ぎたのが良くなかったのだろうか。
土曜日は必ず口開けを待つ。寒い冬も暑い夏も変わらずに毎週土曜の朝は仕事場に出掛ける時刻よりも早く家を出る。京成線が押上駅を過ぎると車両が地上へと出るのだ。地下鉄丸ノ内線が赤坂見附から四ッ谷に入る時や、京成線が押上から曳舟に向かう時の、車両が地上に出る瞬間が大好きである。車内が一気に明るくなり、車窓からは天空に聳える希望の証「東京スカイツリー」の勇姿を望むことが出来る。
あの頃は、僕もこの町で小さな恋をしていた。仲見世界隈では知らぬ者が居ない程の人気者の彼女は、宇ち多゛の奥席でもマドンナ的な存在だった。あのコに恋い焦がれていたのは僕だけじゃない筈だ。
だが、そんなワンウェイの恋など束の間の恋である。渋谷や新橋辺りでも何度かデートをしたが、結局はそれ以上に実らなかった。今じゃ彼女も人の嫁となり、僕との友人関係も続いている。あぁ、だらしないね、オレは。
土曜日は朝から梅割りで酔い、踏切の向こうの吞んべ横丁のスナックなどで昼から唄い、また吞んだ。夕暮れまでこの町で酔い、また電車に乗り込む。何度となく深酔いに寝落ちして、電車を乗り過ごした。三崎口まで行ったこともあれば、羽田空港で目が覚めたことも多々あった。
立石の町には、酒の魔人でも棲んでいるのだろうか。宇ち多゛の梅割りも余り吞み過ぎると後から急激にボディブローの様に効いてくる。3軒目か4軒目辺りの酒場ではもうカウンターを枕に寝てしまう。
平日も、仕事が終わると立石へと向かう事が多い。午後7時前後に宇ち多゛に着くと、もう品切れが多くなりシロと大根だけが残っているなんて事もしばしばだ。それでも、此処の梅割りを吞まなずには仕事からの開放が出来ないのだ。
ここ数年は、僕も体調を気にする様になり、寶焼酎の梅割りの杯数をセーブすることにした。最初に必ず瓶ビールの大瓶を貰うことにして、梅割りの杯を減らすのだ。これだけでも、大分違う。
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何軒か酒場を梯子してから向かうのは、「吞んべ横丁」だ。
ここは昭和28年頃、立石デパート商店街として生まれた一角だ。
かつてこの街には、血液製剤を造る日本製薬葛飾工場があったため、原料を確保する「血液銀行」に自分の血を売る輩が多かったそうだ。漫画家のつげ忠男は、其処で働いていたし、作家の五木寛之も困窮をしのぐために売血に走ったと聞く。
「わが人生の歌がたり 昭和の青春」にも記しているが、早大在学中、極貧のために血を売って生活をしていた。
「立石の製薬会社に、しばしば血を売りに行ってピンチをしのいだ。
この売血というやつは、肉体よりも、精神に悪い影響を及ばすものらしい。出かけて、二百CC抜いて、手取り四百円ほどもらってくると、二、三日は働かないで済む。つい習慣性におちいりやすい危険があった。....四百円を握りしめてたんぼ道を帰ると、遠くの景色が傾斜して見えた。もう二度と血を売るのはやめよう、とそのときに考える。だが、またどうにもならなくなると、京成電車に乗るのだった」と。
坂口安吾がハマったヒロポンは、昭和二十六年に「覚醒剤取締法」が制定され禁止されたが、まだまだ闇取引で横行していた時代だ。売血で金を手にした連中は酒とクスリに溺れ、チョンの間へとしけ込んだことだろう。
当時の立石は町工場が多かったため、仕事を終えた職工たちのオアシスだった。今では、地元の連中しか足を踏み入れない様なディープ・スポットになっている。
線路脇の道から入ることも出来るし、『鳥房』の横からも行ける。
つづく...