いつもなら立石に向かう時間、新宿駅の小田急線乗り場で待ち合わせ。
前日も神田『升亀』、神保町『兵六』そして『銀漢亭』とハシゴ酒をしていたので、まだ完全に酒が抜け切っていない。それでも吞んだくれ山チームは元気なのだ。
ライターのカオルちゃんと神保町の宮崎駿こと中西さん、それにハッシーは最近毎月の様に山に行っている。日頃の酒浸りを解消するべく、大山を目指したのだ。
新宿を出た小田急線は、海老名厚木方面へと進む。多摩川、相模川と二つの川を超えて電車はひた走る。川面を照らす朝日が煌めいて思わず目を細めてしまう。まるで大人の遠足気分だナ。
伊勢原駅で下車し、其処からバスで大山ケーブル駅へと移動。






大山は高尾山の様にアップダウンが無い。アップアップで、ずっと登りっぱなしの山でアル。



大杉やブナの原生林の中を歩いていると実に気持ちが良い。処どころに天狗鼻突き岩とか夫婦杉などの見どころも在る。
カオルちゃんは、山ガールのスタイルがすっかり板に付いて来た。

山頂に近い21丁目は「富士見台」だ。

遠くに見える山々は、緑の濃淡が折り重なる様で美しい。野鳥のさえずりさえも弾んでいる。

もうひと踏ん張り登れば頂上だ。山頂に近づくに連れて真っ白な雪景色となった。







ビールも美味かったが、足元はまだ雪なので冷える。

空気も澄んで、燗酒がハラワタに滲み込んだネ。

眼下の街の向こうには江ノ島も見渡せた。
帰りはケーブルカーに乗らず、女坂を歩いて降りた。不動前に架かる無明橋には不思議な言い伝えがある。


此処は「かわらけ投げ」が出来るのだネ。

参道を降り、大山ケーブル駅まで歩く途中、至る所にみつまたの花が植えられていた。

適度な山疲れが躯に心地良い。帰りは新宿に出て、いつもの『きくや』で乾杯だ。

中西さんとは此処で別れ、我々ハシゴ酒組は新宿花園神社脇にひっそりと佇む酒場『川太郎』へと移動。


昼間の山登りも日頃の不摂生を正してくれる。山は、呑んだくれたちの処方箋の様なものだネ。
前日も酒朋マタエモンさんとトクちゃんが深夜まで『川太郎』を占拠していたらしい。

これが、いきつけの酒場ならではの愉しみなのでアル。気心知れた仲間が、この同じ席で夕べも酒を酌んでたのか、女将さんとどんなやり取りをしたのだろう、などとあれや此れを想像しながら、こうして変わらぬ酒を酌む。

素敵な酒仲間たちと別れ、独り酒を求めて夜の街へと戻ったのだナ。

大正・昭和期の全国各地の駅弁の掛け紙コレクション展だ。

駅弁の掛け紙は、実に多種多様のデザインが有るのだナ。
木版から石版、そして活版印刷と時代と共に移り行く美しい掛け紙はその地その地の観光名所等も随所に取り入れたりして、デザイナーじゃなくても唸る程に素敵なのだ。

懐かしい駅弁の掛け紙を愉しんだ後は、『山田屋』に寄ろう。名物の半熟玉子をアテに焼酎吞めば昼間っからパラダイスに突入だ。
北区飛鳥山博物館 春期企画展「ノスタルジア・駅弁掛け紙コレクション」展は、5月8日まで開催(月曜休館)
◇ ◇ ◇
山口瞳がかつて書いた酒のエッセイを思い出した。
〈その酒場で、ウィスキーの水割りを飲む気になれなかった。もっと強い、キックするものが飲みたい。〉と書いていた。作家の永井龍男さんは、たえず舌を蹴っている感じを「キックする酒」と言っていたらしく、そのことに触れていた。
時々、そのキックする様な酒を欲することがある。そんな夜は、見知らぬ酒場へ行くよりも馴染みのドアを開く。気心も知れているので、こちらの顔色をちょいと見れば、今宵何を飲まんとしているのか察してくれるのだナ。
そんなバーでは、いつも最初にギネスを頼む。

そのうちに店主が、キックする酒をカウンターに置いてくれるのだ。


そして、同じくストラスミルの1976年物、マキロップ・チョイスのシングル樽出しの原酒だ。果実の様な香りが仄かに漂い、次第にスモーキーな香りへと移るのだナ。35年前に蒸留されたウィスキーは、長い時を経て、遠い異国の地のバーに辿り着いたのだ。

さっきまで、振り回されていた広告代理店の若い輩のことも気にならなくなって来た。彼奴は竜頭蛇尾を絵に書いた様な男だったが、この先大丈夫なのだろうか。
仕様が無い奴の事など忘れよう。そして、酒をもう一杯。
因みに此処は『Bar Syu-On』と云う酒場だ。此の店を一発で探せたら凄い。兎に角、判りづらい場所に在るのだヨ。
あぁ、こうしてまた夜が更けて行くのでアル。
『Bar Syu-On』
北区のサイト
米国の雑誌「THE NEW YORKER」の三月号の表紙が衝撃的だ。

いつも拝読しているイラストレーターの原田治さんの日記で知ったのだが、イラストレーターとしてのとても印象深いことを伝えてくれた。
〈日本人の一人としてはつらくて悲しいけれど、このイラストの持つメッセージ性は圧倒的です。優れた洞察力と批判精神が無ければ、このような力強いイラストを描く勇気を、イラストレーターは持ちえないからです。〉
連日テレビにて繰り返される「放射能の人体に与える影響の低さ」を報じるニュース。
〈そしてその安全宣言を聞いて、開花宣言が出たばかりの東京では、お花見へ繰り出す人たちもいるでしょう。街の電気が消えていれば、月明かりに見る夜桜も美しい。
目には見えない恐怖を可視化した『ニューヨーカー』の桜など、どこにも咲いてはいないから、日本人だけの安全神話はまだまだ続いてゆく。安全安心を信仰する、あたかも新興宗教のように〉と締めくくる。
原発事故による放射能汚染に関しては、早く本当の事実が知りたいものだナ。
原田治さんのブログ「原田治ノート」
「THE NEW YORKER」

春の心はのどけからまし
今朝もまた東北を地震が襲った。幸い津波が来る事は無いとの事だが被災している人々の不安は高まるばかり。静岡で桜が開花したと聞いた。東京も今週には咲くだろう。四月の中頃には、東北地方でも開花する。
この世の中に桜がなければ、さぞかし長閑な心で春を過ごせただろう。
在原業平は花見の席で、或る意味醒めた目で桜を眺めていたのかなぁ。絢爛豪華に咲き誇る桜の花もやがてはあっけなく散ってしまう。散る姿に何を重ねたのだろう。
散ればこそいとど桜はめでたけれ
憂き世いなにか久しかるべき
酒席にて業平が詠んだ歌への返歌だネ。桜は散るからこそイイのだ、と返している。はかないこの世の中に永遠なんてないのだナ。
桜と富士山を愛でることは日本人のDNAに深く根付いていると思う。
福島県三春町で住職をしている作家の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんが桜について記していた。
「非日常の時間が、束の間の開花に伴って訪れる。それは死にも似て、職業も地位も年齢もいっさい関係のない世界である。日本人は、ときおりそうして非日常の祭りをすることで日常をほぐし、エネルギーを充填(じゅうてん)して日常に戻ってくる」
(3月25日付の朝日新聞『天声人語』から)
地震と津波が襲った列島にも春が来て桜が咲く。開花を見ずにこの世を去った方々が大勢いる。難を逃れた人たちがどんな思いで今年の開花、そして散って行く姿を眺めるのだろうか。

木曜日、蛤のかたちをした中潮の更待月が夜空に浮かんでた。
月明かりが朧(おぼろ)に草木を照らし、沈丁花や白木蓮の花の香りが風に泳ぐ時季になれば、窓を開けて人肌に温めた酒を酌むのがよい。
さらに気心の合った酒朋が席をともにしていれば、酒が一段とハラワタに沁みることだろう。
ベランダに植わる沈丁花の枝を少しだけハサミで切り、備前焼きの器に投げ入れる。何日かすると蕾みが膨らみ小さな花が咲く。外の風がまだ冷たい日は、窓を閉め机上の梅を眺め独り酒を酌むのも愉しい。
沈丁の香に誘われし濡れ舗道 八十八
さて、水曜日に酒朋ビリー隊長と桜木町にて合流した。目指すは五時口開けの『武蔵屋』だ。僕はいつも休みの日に重なってしまうのだが、この日もナント臨時休業だった。

僕らと同様に大阪からわざわざ此処の営業日に合わせて出張して来た方と出逢ったが、なんとも残念。
野毛の街はまた雨が降り出していた。僕らは仕方無く諦めて、次を目指す。『福田フライ』へお邪魔すると先程の大阪人とまたお会いした。
矢張り皆さん考える事は一緒なのだネ。


此処は女将さんが揚げるフライが人気だが、息子さんの仕入れる魚介も素晴らしい。

白モツ炒めも辛いソースで戴いた。

雨が強くなってきた。地下道に降りて、そのまま野毛ぴおシティの地下に在る立吞処『第三酒寮キンパイ』へ。


此処は渋谷の『富士屋本店』をギュっと圧縮した様な小体の立ち飲み酒場でアル。読書に耽る御仁、競馬新聞に釘付けの老翁、仕事帰りのサラリーマン諸氏等々、店の中、外で自由に酒を酌んでいる。

此処で意外と人気なのが、フレンチフライなのだナ。

ビリー隊長が燗酒3杯呑み干すのを待って、横浜を後にした。
そして、着いた先は神保町だ。震災から一週間ぶりに営業再開した酒場『兵六』はほぼ満席で賑わっていた。





電車の時間が気になるビリー隊長は途中で帰宅。
残った僕らは『銀漢亭』へと流れた。


日本酒が美味い。そして冷や酒をおかわりした。





3.11に起きた未曾有の東日本大震災と原発事故から二週間が経とうとしている。
東北の太平洋湾岸地域をはじめ被災地では、自衛隊や消防職員、地域住民、それに全国各地から集まっているボランティアの方々が日夜被災地支援に全力を注いでいる。都内の大きな街道も被災地へ物資を運ぶトラックが次々と通り過ぎて行く。
無事に被災地の方々に届く事を願いながら、過ぎ去る車の群れを眺めていた。昨日は以前旅をした東北の事を書いてみたが、記憶と共にその土地の匂いも蘇るのだナ。
さて、東京に長く住んでいると自然界の匂いに疎(うと)くなる。
年が明けて、土から蕗の薹(とう)や土筆(つくし)が顔をのぞかせる時季が来るとその香りもまた春を呼ぶのでアル。山菜を摘んで、家路を急ぎ開いた新聞紙の上で土を落とし分けるのだ。大きな鍋にたっぷりと湧いたお湯でアク抜きをし、佃煮を作る。家々で味が違うのだが、近所の皆が持ち寄って来るので、色んな味を楽しめるのだナ。

土筆揺れしゃがむ乳房も揺れてをり 八十八
今も食卓に乗る山菜の佃煮は、幼い頃に嗅いだ野原の匂いがする。
その田舎を無くした方々が東北地方に大勢いるのかと思うと、今も胸が苦しい。
◇ ◇ ◇
春分の日の月曜は、終日春の雨が降り続いた。
前日に野方『秋元屋』に伺ったので、この日は桜台に開いた『秋元屋』にお邪魔した。
池袋で電車を乗り換え、桜台駅を降りるともう眼と鼻の先だ。

四時口開けの店内は、雨のせいかまだ空いていた。

小体の店内は13人程座れるコの字カウンターに小さなテーブル卓に10人程座れるのかナ。
品書きはほぼ野方店と同じだが、フライヤーが無いため揚げ物は無い。そのかわり桜台にしか無い一品も有る。お馴染みのキャベツに加えて、こちらではレタスも人気だ。

半焼きたんも半焼ハツも三浦さんの絶妙な火加減で素晴らしい。


酒を三冷ホッピーに替え、自慢のつくねを戴いた。


三冷をおかわりして、お次ぎも桜台のみのオリジナルを戴いた。

この牛テールスープは、桜台店スタッフの片倉さんが作っている。
隣りで食べている人のを見ると皆注文してしまう程の人気メニューだ。
彼は寡黙で控えめな方だが、こんな素晴らしい一品を作れるのだから凄いネ。このスープは少しだけ濃い目の味になっているが、それだけ酒がススむのだナ。
八広の『丸好酒場』にも「じゃがカレー」なる一品が有るのだが、ご飯に合うカレーじゃなく、あくまでも酒のアテとして作っているのだ。






吉田類さん主宰の句会「舟」のメンバー、高澤哲明さんは今回の震災で多大な被害を受けた陸前高田市のご出身。
高澤さんからの句会の仲間たちへメッセージが届いた。
「高澤哲明さんからのメッセージ」
〈実家が多くの被害を受けた岩手の陸前高田市にあります。
幸い家族 は難を逃れましたがいまだ不明の親戚や友人が多くいます。
メールでメンバーの方にお伝えいただけませんでしょうか。またその際に
被災地への少しでも多くの義援金をお願いしたい旨添えていただけますと
助かります。〉
今、僕らが出来る事は義援金の寄付やガソリン、トイレットペーパー等の買い控えだろう。小額でも良いから、出来る限り、何度でも 寄付をしようネ、みんな!
5月1日(日曜日)、音楽プロデューサーの須永辰雄さん(太平ボーイズ)
と吉田類さん主宰によるチャリティイベントが開催されるとの事。
酒造会社にもご協力いただき、売り上げを義援金として被災地への寄付するそうだ。
イベントの詳細が入り次第、また追って報告したい。
◇ ◇ ◇
春分の日を含めた三日間、仕事を休んだ。と云っても、何処かに旅行に出た訳じゃない。いつもの様に土曜は朝から京成立石で朝酒を吞んだ。
いつもの酒朋たちが集い、変わらぬ朝の憩いだ。

大瓶を貰わず、最初から梅割りにした。

二件目は『ゑびすや食堂』へ。大島さんが持って来てくれた福島産山葵の葉の醤油漬けが酒のアテに良い。


三軒目は言わずもがなの『二毛作』。

綿の様にふんわりと柔らかな口当りが実に控え目で旨い。特別純米は美山錦を使った生酒だ。

さて、四件目は『立石吞んべ横丁』に在るスナック『さくらんぼ』にて大いに唄った。

みんなはそのまま立石で吞み続け、8軒もハシゴしたらしい。

そのまま武蔵小山の『牛太郎』に移動し、独り酒。



以前、牛山隆信の写真集で「秘境駅」なる駅を知り、途中の大志田駅に行こうと思ったのだが、夜に一本しか走っておらず諦めた事がある。
浅岸字大志田に在る大志田駅は無人駅で、昔使用されていたスイッチバックの線路後が残っているそうだが、結局一度も訪れていない。
盛岡から二時間程で宮古駅に着く。其処は三陸リアス式海岸の北端だ。リアス式海岸とは谷が沈降し海水が入って出来た海岸の事。宮古は北側が隆起して、南側が沈降して出来たそうだ。
景勝地として名高い浄土ヶ浜は朝が美しい。この地を訪れたならば、必ず一晩泊まり翌朝早くに起きる事だ。この浜の向こうから昇る朝日が実に見事だからだ。白い巌石の塊で出来た巨大な「剣の山」は、広い太平洋に向かって咆吼(ほうこう)する獣の様に見えた。そんな荘厳さが備わっているのだ。
その昔、曹洞宗の僧侶が透き通る様な蒼い海に浮かぶ白い巌石の眺めを「極楽浄土の如し景観」と言ったことから、この名が付いたそうだ。
此処に立てば、成る程と頷くしかない。
両手の親指と人差し指を直角に曲げてフレームを作れば、何処を切り取っても素晴らしい絵になる。海から吹く風を顔に受け、ただ何もせず過ごすのが良い。
展望台に登れば、赤松に覆われた浄土ヶ浜が一望出来る。入り江周辺では、幾つもの屋台が出ており宮古湾で穫れた新鮮な魚介を食べさせてくれた。帆立貝やサザエも美味しかったが、松藻(まつも)の味が今も忘れられず舌が覚えている。三杯酢にして食べても旨いが、酢味噌で合えた焼き松藻が酒に合った。松藻はこの辺りにしか生息していない。マンサクの花が咲く今頃が旬だと聞いたが、今はもう採れないだろうナ。
魹ヶ埼(とどがさき)灯台は、北海道に向かう船が必ず目印にする大事な灯台だ。木下恵介監督が撮った映画『喜びも悲しみも幾歳月』は、此処で7年間過ごした灯台守の妻キヨの手記を元にしている。昭和32年の映画だが、主演の高峰秀子が美しかったナ。
浄土ヶ浜から15分程歩くと日立浜町に出る。龍神崎も近い宮古湾沿いの町だ。あの時泊まった民宿は、確か自分たちの船を持っていた。その船が水揚げした新鮮な魚介と地元の野菜を使った旨い料理が自慢の宿だ。エゾアワビ、どんこ汁やどんこのタタキなど本当に美味しい。この辺りで穫れるドンコとは、タラ目チゴダラ科の魚だそうだ。関西で食べたドンコとは違う魚だったと思う。
3.11、浄土ヶ浜も津波の被害を被った。
『浄土ヶ浜パークホテル』が避難場所になっているそうだ。民宿のご家族の安否が気になるが、ちゃんと避難出来ただろうか。
僕はあの小さな三陸の町を歩きながら、何度も足を止めた。そして、すれ違う人たちや店の軒先に立つ爺さんらと沢山の話をした。長い人生の中で幾度も津波を経験している人も居た。1960年にチリで起きた地震による津波が宮古市を襲ったそうだ。
あの爺さんの顔に刻まれた無数の皺が忘れられない。笑うたびに彫刻刀で彫った様に皺が深くなった。

漁船の人も、民宿の人も、道を聞いたおばちゃんも、全てが温和で、親切で、陽気だった。あれこそ東北地方の誇る人柄なのだろうネ。
吹く風の音も、漁船のエンジンの音も、虫の声も総てが深く僕の心に刻まれている。海を眺め、山を眺め、そして町を眺めて、日本て本当に美しい国だと思った。
今、懸命な復興作業が進められている。十年、いやそれ以上かかるかもしれない。でも、あの美しい風景が戻ってくると信じよう。
「みちのくパワー」「東北魂」と言う言葉を知った。その心意気で、一刻も早く復興する事を願うばかりだ。
そして、もう一度あの地を訪れよう。

向こうから歩いてくる人影も黄昏時の夕闇の中では、朧(おぼろ)に映るだけだ。互いに入った酒場の灯りの中で、漸く知った顔だと判り頬が緩むのだナ。
鐘ケ淵に向かう交差点の角地に「丸好酒場本店」の暖簾が揺れている。

口の中でトロける美味さは、わざわざ足を運ぶ価値大いに有りだ。
女将さんに聞けば、昔は牛肉を仕入れるとレバやハツは只で付いて来たそうだ。

そして、忘れちゃならないのが「特製酎ハイ」。


その煮込みはかなり濃厚な味である。

二年前の冬、主人の山口才二さんが逝去されて女将さん一人になったのだが、今は娘さんが一緒に手伝っている。
『丸好酒場』は主人も常連さんも皆競馬好きだったので、日曜は競馬中継に合わせて昼から店が開くのだ。最近は日曜は12時開店と書いた貼り紙が出ているが、以前はずっと4時開店としか出ておらず、日曜日も4時からだと思って来る客が多かった。皆さん、主人と一緒にテレビの中継に夢中になりながら酎ハイを酌っていた。
此処は酒の肴以外にも女将さんが作るニラ玉や味噌汁などご飯のおかずも旨いものばかり。近所の母子や学生なども食事に来たりする。こんな町に根付いた酒場は嬉しい限りだ。



羽田空港の国際便が増えた影響か朝仕事場に向かう道のりの間に何度も旅客機が放つ轟音が東京の街に響く。雨の中では、さながら春雷の様に聴こえるのだナ。
春の雨の中、白モクレンの花は空に向けて咲き誇っていた。

仙台に住む大越龍一郎さんから日記にコメントを戴いた。
〈この度の地震災害において、各分野、遠くは鹿児島から仙台に応援に来ていました。このお礼を次のブログでお願いできないでしょうか?
お願い申し上げます。〉と言う内容だ。
遠く鹿児島からも復旧支援に出向いてくれた方々も居るそうです。僕の酒朋キクさんも病院医療関係の仕事に従事しており、週末からクルマで仙台に出掛けている。今回の地震災害は、被災した方々のみならず全国民がこの美しい国の復興の為に一歩踏み出したと思う。
地震と津波災害がもたらした福島原発もいまだに深刻な問題を抱えたままだが、音楽家の細野晴臣さんが昨日ブログに書いていた事がとても印象深かった。
〈暴走する原発をなだめるのに先端の技術は無力だった。だから江戸伝統の勇気ある火消しらが決死の出動をしてくれた。彼らが放水を続け、それが功を奏している。そんな水を穢せば自らを苦しめる。その因果を今、世界が体験しているのだ。その一点だけでも、原発に未来は無いと人類は認識できたのだ〉と。そして〈日本人は戦争に負けて何かを知った。今回も敗北を経験し、さらに深い大事なことを知った。日本人はこの経験を忘れることはない〉と締めている。
渋谷や銀座の街の煌めくネオンが消えて一週間程経つが、僕が子どもの頃に遊んだ風景が街に蘇っている。

都会はいつの間にか何処もかしこも必要以上のネオンや街頭ビジョンの明かりに慣らされて四六時中眠らない不夜城の街と化した。
また、あの頃の街の明かるさに戻しても良いのではないだろうか。
先週の朝日新聞に「公共広告」の事が出ていた。

オシム監督の脳卒中予防や仁科明子母子の子宮がんの予防広告などだ。これが、余りにも多く茶の間に流れているため、各局や制作元のACジャパンに「しつこい」との抗議が殺到していると言う。その為、「不快」の声が多かった最後の“エーシー”と言う高いメロディに乗ったジングルを削除し出したのだナ。
僕は思うのだが、そんなクレームの電話などをするのならば、テレビのチャンネルをNHKにしておくか、テレビ本体のスウィッチを消した方が良いのではないか。
そう云う「さもしい」行為を被災地で必死に生活している人々、救助、支援活動をしている人々は、どう思うのだろうか。不自由なく過ごす都心の一部の方々の「買い占め」行動も同様だが、実際に被災地に生きる大越さんからメッセージを戴き、更に東京に住む僕らが今何をするべきか考えさせられた。
細野さんの“ぼやき”のサイト


我が国は草も桜が咲きにけり 小林一茶
街の彼方此方(あちこち)で卒業式が行われる時季だ。仕事場近くの中学でも催されていた。

都内の中学高校や大学でも今回の大地震の被害による被災者を慮り、卒業式の取り止めを決めた学校が多い。その中の一つ、立教新座高校の渡辺憲司校長先生の卒業生へ贈る言葉が素晴らしい。(リンクするので、後で是非とも読んで貰いたい)
校長先生は当初、「時に海を見よ」と題してメッセージを残すつもりだった。先生の脳裏に浮かぶ海とは、真っ青な大海原だ。だが地震発生後〈目に浮かぶ光景は津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である〉と記している。
これから希望に満ちた思いで大学に進む生徒に対して贈る言葉を悩んで悩んで綴ったのだろう。こちらまで、勇気と希望を貰ったようだ。
渡辺校長先生に学んだ生徒たち皆がこれから大人になった時、若き後輩たちに同様のエールを送り背中を押して欲しいものだ。
◇ ◇ ◇
3月10日、木曜日の夜空を見上げると伊達政宗の兜の様な上弦の月が輝いていた。あれは、翌日の大地震を正宗が心配していたのだろうか。

今回の東日本大震災の救援物資輸送の拠点として、自衛隊松山基地の滑走路を迅速に復旧したそうだ。


松島瑞巌寺境内にある淡紅色の臥龍梅はもうすぐ花開く時季となる。

浮世の闇を照らしてぞ行く
伊達政宗の辞世の句だが、仙台市民のみならず我々も政宗の様に悔いなく生き抜いて行こうじゃないか。

塩辛や薫製は東京でも食べるが、生の海鞘は新鮮な海の近くに限る。
小説家の立原正秋は〈生牡蠣の味に似ているが、海鞘はもっと色っぽい味である。また歯ざわりも海鼠(なまこ)の硬さに似ているが、これは若い女のそれであり、海鞘は中年女の歯ざわりである〉と書いている。
酢で軽く〆た海鞘をつまみながら、人肌の燗につけた酒を吞む。至福の時でアル。
ほや食うて水の旨さや青嵐 立原正秋
今日は仙台を旅した時のことを思い出してみた。
「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。」校長メッセージ